◇2012/09/25 旧山古志村を訪ねて
8月25日~26日、新潟県で開かれた日本母親大会の見学分科会として、8年前の中越大震災で被災した山古志村を訪ねる機会に恵まれました。3.11東日本大震災から約1年半、被災地の復興は遅々としており、被災者の避難生活が長引いています。5月には栃木県真岡市、益子町、茂木町が竜巻災害にも見舞われ、私は地元党組織と被災者救援にとりくむなかで、国と県の支援策が喫緊の課題だと痛感、改善を求めてきました。それだけに中越震災で全村避難を余儀なくされた山古志村の現状や、復興のとりくみを現地で聞きたかったのです。
「災害被災者支援と災害対策改善を求める新潟県連絡会」の宍戸末雄さんの案内で訪ねた旧山古志村は、新潟市から75㎞、長岡市の東、標高300㍍の丘陵地にありました。2004年10月の大震災による被害で、死者5人、負傷者25人、主要産業の錦鯉約18万匹と牛が114頭も死に、山崩れによる河道閉鎖で34㌶が水没したとのこと。驚いたのは、これだけの被害を受けたとは思えないくらい復興が進んでいたことです。それには阪神大震災後につくられた国の被災者生活再建支援法(1998年に生活関連支援で100万円)が、住宅本体に使えないものの200万円追加されたり、新潟県が復興基金事業を立ち上げ被災者の生活再建を支援したことが大きかったといいます。もともと雪深い村であったため、住居は大変頑丈で被害が少なく、全壊・半壊の家も村の世帯の9割が加入していた農協共済で救われたとか。さらに全国から寄せられた義援金600億円も大きな力となりました。義援金は3次にわたって全壊世帯に380万円支給されたとの説明でした。もちろんブランドや地産の食材を活かした村おこし、全国各地との交流、学生たちとの協同など、ふるさとを愛する村民の主体的ながんばりがあってこそですが、国・県の財政支援がなければそうはいかなかったでしょう。
「美しい鯉の村」の象徴だった棚田の養鯉池はほぼ修復され、震災から5年ほどでコメ作りもできるようになり、闘牛も復活しました。一方で、震災の影響と長岡市との合併で人口流出がすすみ、震災時との比較による減少率は世帯69%、人口56.7%で、山古志のように結束力の強いところでも、中山間地の再生は課題が多いと感じました。
村のなかで唯一、木籠集落の水没家屋保存カ所周辺は震災の傷跡をくっきり残しているところでした。集落の住民は「水没家屋は年月が経つにつれ朽ち果てていく。けれどそれが私たちのほんとうのふるさと」「大切な家族を見守るように、最後まで家屋を見守り続けたい」と、「水没家屋を見守る集い」をよびかけていました。どんなに形を変えても、ふるさとはふるさと。でも、そばに住むことも、見守ることさえもできず、原発事故という人災でふるさとを追われた人たちの思いは…。山古志のいまに光と影を感じつつ、先の見えない不安の中にある福島の人たちに思いをはせながら、山古志村を後にしました。